縄文研究の地平2012 [研究集会]
縄文研究の地平2012 -武蔵野・多摩地域の集落調査が問いかけたもの-
日時:2012年3月10日(土) 13:00~16:50
場所:東京都埋蔵文化財センター会議室
主旨説明 「縄文研究の地平2012 -集落調査の地平-」小林 謙一
基調講演 「1960・70年代の縄文集落研究」安孫子 昭二
研究発表1「集落研究の基礎になる単位時間 -住居の存続時間-」黒尾 和久
研究発表2「回顧と展望 -集団領域論とセツルメントパターン論-」中山 真治
研究発表3「縄文集落と景観考古学」山本 典幸
割り当てられた時間は僅か45分という最後の討論の場では、多摩ニュータウンNo.446遺跡のある3軒の住居跡のうちの2軒が同時に存在していたか否かについて、論じられた。
あくまでも同時併存を主張する基調講演者に対して、それは数ある可能性のうちの一つに過ぎないと住居と存続時期のクロス表を描いて述べる研究発表者。
「土器の細別時期の連続は、その場での居住の連続や継続を保証しない。
同一細別時期の住居イコール同時機能とはならない。」(黒尾和久:『発表資料集』より)
「このように、類似性の強さによって共通単位を想定するか、差異性をもつ住居跡間で変換規則を駆使したグループ化を抽出するかといった「構造」分析の立場の相違はあるものの、実際に扱った集落遺跡自体に分析の未熟さが残るならば、遺跡内における基礎単位の抽出と群別・分節といった普遍的「構造」の着想は容認されないだろう。」(山本典幸:同上)
異なる意見は平行線を辿り、何ら接点を見出せぬまま、追い立てられるようにして会場を後にする。
両者の遣り取りを聞きつつ、かつて記したある文章を想起していた。
「認識論的系列である普遍的客観性とは理性的存在者全員が妥当であると認める状況であり、学科内客観性とは学問という特定領域内部での合意を意味する。たとえば石器資料の相互関係を表すのに、「接合」という状況は普遍的客観性を有しているが、「同一母岩」という状況は学科内客観性それも限定的な学科内客観性しか維持し得ない。1cm以下の黒曜岩砕片50点についてすべて同一母岩であると主張する研究者に対して、その根拠を示すように要求しても堂々巡りになるだけであろう。」(五十嵐2004「考古記録」『現代考古学事典』:125.)
考古学的時間論について。
「竪穴住居における「時」は、層位的情報である住居同士の重複・近接状況や住居構築・機能時に転用・設置された埋設土器、住居廃絶時に置き去りにされた土器および竪穴埋没後に廃棄された土器群や竪穴埋没後の撹乱状況など、複数の状況証拠を総合的につきあわせた帰納的操作によって判断されるが、埋設土器から導き出される構築・機能時期と住居覆土出土土器から導き出される埋没時期、すなわち上限と下限に挟まれるように廃絶時期が導き出される。」(黒尾和久2010「住居を中心とする土器の出土状況」『前原・大上・北伊奈』(第2分冊):22.)
こうした文章についても多少の混乱があるようだ。例えば上記の「住居覆土出土土器から導き出される埋没時期」というのは、正確には「住居覆土中・上層出土土器から導き出される埋没時期」のことであり、「床面~覆土下層出土土器」については、「廃絶時期」とされているからである。
こうした点を明確にした上で、私たちはさらに先へと進んでいかなければならないのだが、その点(鈴木-林テーゼ)については、いずれの論者も言及されることはなかった。
「層中の遺物すなわち面と面に挟まれて包含される遺物は、下面の形成以後、上面の形成以前のある時に含まれる。しかしこの「ある時」とはあくまでも遺物が層に含まれた時間であり、遺物の廃棄(d)に関わる時間である。遺物が示す時間、代表的には土器型式が示す製作(m)時間について言いうるのは、層の上面すなわち層の形成以前を示すという<TPQ>のみであり、層の下面すなわちマイナス痕跡の場合には掘り込み面(マイナス面で構成される遺構の製作<M>時間)との前後関係は不確定なのである。(五十嵐2008「考古時間論 -縄紋住居跡応用編-」『縄文研究の新地平(続)』:187.)
ここから先の道程については、本年秋に刊行予定という『新地平(続々)』に少し記した。
すなわち山内編年と井戸尻編年、土器型式編年とセリエーションの相違に関わる問題である。
景観考古学についても、欧米においてはともかく、少なくとも「日本考古学」では<遺跡>問題を潜り抜けない限り、本質を欠いたものとなることを確認した。
「縄紋のことは縄紋のことだけをやっていては判らない」というのが、当日得た結論である。
ご指摘ありがとうございました。
「混乱」について修正いたします。
他にもあれば、ご教示ください。
また「「縄紋のことは縄紋のことだけをやっていては判らない」というのが、当日得た結論」についても、基本的に賛成です。
それを「縄紋研究姿勢方針」とでも言っておきましょうか(笑)
by カラス天狗 (2012-03-22 10:13)
「縄紋研究」に限定されず、考古学全体、ひいては学問における、あるいは物事を考える際における基本的な「姿勢方針」ではないかと。
「集落研究」について言えば、「おーはし」と「おちかわ」における方法は、どこが同じで、どこが異なるのかといったことを通じて、はじめて見えてくるものがあるのではないかと思っています。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2012-03-22 12:20)