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内田2011「日本考古学の時代区分」 [論文時評]

内田 好昭 2011 「日本考古学の時代区分」『考古学研究』第58巻 第3号:27-36.

「実証的な文化史的考古学の手法と日本人や日本文化の連続性・一系性という了解は、分かち難く結びついているのである」(28.)として、チャイルドによる時代区分の論理構造を下敷きに、「記紀の記載に基づく時代区分」(18世紀後半-1880年代)から「民族交替論の時代区分」(1890年代-1910年代)、そして「固有空間論に基づく時代区分」(1930年代-)を独創的な図でもって示す。
坪井、鳥居の民族交替論は社会集団と時代が一致し、山内以降の固有空間論は社会集団と空間が一致している、という端的で鮮やかな指摘である。

かつて以下のような課題を提出したことがあった。
「「日本考古学」という学問のまなざしとそこに現われている「日本的特質」を、私たちはしっかりと認識するように求められている。その次には「日本考古学」なるものが体現している枠組み(言語としての日本語・空間としての日本列島・主体としての日本人という三位一体構造)、そこから漏れ落ちてしまっているものの様相を明らかにしていく作業が控えている。」(五十嵐2008a「「日本考古学」の意味機構」『考古学という可能性』:30-31.)

ここで、一つの回答が与えられた。
「日本考古学とは、この「日本」とよばれる固有空間をフィールドとする考古学のことなのである。」(33.)

こうして「文化史的考古学」(私の語彙で言えば「第1考古学」)の回復に向けた方向性とそれに抗う方向性が示される。

前者について。
「社会集団は必ずしも同じ広さの空間の中にとどまり続けることはない。空間を移動することもあるし、占有地域を広げたり、縮めたりする。そして、それは考古学的文化の地理的分布によって読み取れるはずである。こうした空間の変容をどのように明らかにし、どのように表現するか、という課題を解決する必要があるだろう。時代区分が地域の限定を必須とするとしても、こうした空間の変化とどう折り合いをつけるのか、ということである。」(35.)

縄紋土器型式について言えば、山内1937以来の「渡島、陸奥、陸前、関東、信濃、東海、畿内、吉備、九州」という地理的区分、あるいは現代風に「北海道、東北、関東、中部、北陸、東海、近畿、中国・四国、九州、沖縄」にしても、あるいはI~Ⅴの大領域、a~dの中領域、1~7の核領域といった23区分(『総覧 縄文土器』)にしても、全て同じである。
縦横にさらに複雑な罫線を入れていく「阿弥陀籤」方式を推し進めていくのか?
それでも隣接する左右との相互関係しか表現できない!

後者について。
「・・・時代区分を行なうには地域の限定が不可欠である、この地域を私たちが日々活動しているフィールドなみに縮めてみたらどうか。あの川の両岸の空間、あの山からこの山までの間、この盆地という具合にである。(中略)
私たちの日々の仕事は、直接には、このような場所の履歴を明らかにする作業に他ならない。文化史的考古学の論理が、結局のところ文化を特定の社会集団に結びつけざるを得ないのであれば、私たちは民族交替論とは異なったやり方で「場所」を限定し、文化史的考古学に抗う方途が残されているように思うのである。」(35.)

私は、更に<遺跡>という私たちに馴染みの区分単位を射程に据えて構想している。
「時間的な変遷に関わらず通時代的に、その空間範囲は固定的で、明確な境界(遺跡範囲・国境)を有し、境界線の内部は安定的で均質、外部との差異は明瞭であるといった世界認識から、時間的な変遷に応じて、その空間範囲は生成的で、明確な境界などは一時的なもので網状を呈し、内部は常に変動する不安定で流動的な歴史認識へ。」(五十嵐2008c「「日本考古学」と海南島」『海南島近現代史研究』第1号:35-36.)

全く異なった場所からスタートしながら、それぞれの軌跡を描きつつも、期せずして同じような地点に到達しつつある。
そのような感慨を抱いた。


タグ:日本考古学
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