SSブログ

「明大キャンパスの戦争遺跡」 [研究集会]

日時:2011年11月6日(日) 午後1時~4時
場所:調布市文化会館たづくり8階映像シアター
主催:調布市教育委員会、調布市郷土博物館

1.「陸軍登戸研究所 -戦争の記録と記憶・保存と活用-」山田 朗氏(明治大学平和教育登戸研究所資料館)
2.「発掘資料から見た調布飛行場の戦中・戦後」新井 悟氏(川崎市市民ミュージアム)

拙ブログの考古誌批評『下原・富士見町遺跡Ⅰ』【2011-09-29】で提出した問い、「近・現代遺跡としての調布飛行場とその周辺」と「下原・富士見町遺跡」の相互関係について、その答えを伺おうと思って参加したのだが、残念ながら目的を果たすことは叶わなかった。

今回改めて知り得たことは、「陸軍登戸研究所」が所在した場所は、明治大学が1950年に取得して生田キャンパスとして開設する以前には、慶応大学が利用していたということである。すなわち現在の「明大キャンパスの戦争遺跡」は、かつての「慶大キャンパスの戦争遺跡」でもあったということである(「キャンパスのなかの戦争遺跡」【2010-07-01】参照)。

果たして生田キャンパスでは、埋蔵文化財の発掘調査は行われているのだろうか? 
発表では、地上建造物ないし地上建造物が撤去された痕跡についての言及のみで、地中に存在しているであろう痕跡については一切触れられていなかった。当該地が、「特に重要な」近現代「包蔵地」であることは確実である。
また第1発表者と第2発表者とでは、「遺跡」という用語の使い方に微妙なあるいは相当大きな違いがあるように感じたのだが、果たしてどうだろうか?

1944年、慶応大学の日吉キャンパスに海軍の軍令部や連合艦隊司令部が移転してきて巨大な地下壕を構築した。それから64年後、体育館建設に伴って出入口部分が露出し、その後、緊急の発掘調査がなされて報告書が刊行された【2011-09-15】。日吉キャンパスは連合軍に接収されたために、慶応大学医学部と工学部予科は、陸軍登戸研究所跡地に移転した訳である。

上原良司(1922-1945)は、慶応大学在学中に「学徒出陣」し、陸軍特別攻撃隊第56振武隊の一員として5月3日調布飛行場を飛び立ち、知覧を経由して11日沖縄沖にて戦死。
「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。」『新版 きけ わだつみのこえ -日本戦没学生の手記-』日本戦没学生記念会編、岩波文庫1995:18.

慶応大学日吉キャンパス、明治大学生田キャンパス、調布飛行場を結ぶある因縁を感じる。

会場には、5~60人の参会者がおられたようだが、高齢の男性の方が多かったように見受けられた。その中には恐らく登戸研究所や往時の調布飛行場に何らかの思い出や関わり、こだわりを抱かれる方もおられたことだろう。
ただ3時間発表を聞いて「ハイ・サヨウナラ」というのではなく、発表時間と同じくらい意見交換の時間があれば、そうした関係者の方々のコメントなどを伺うこともでき、さぞかし有意義な機会となったことだろう。
本当に「モッタイナイ」。

こうした点が、先史考古学と近現代考古学が決定的に異なる点である。
何せ縄紋時代を経験した人は、現存していないのだから。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0