SSブログ

「第二考古学入門」 [拙文自評]

五十嵐 2010b 「第二考古学入門」『共に歩む』第97号、障がいを負う人々・子ども達と「共に歩む」ネットワーク・会報:16-22. 発行:日本キリスト教団調布柴崎伝道所内「共に歩む」ネットワーク 問い合わせは以下のアドレスへ(aoki-michiyo@nifty.com)

早春の3月に調布で、考古学に全く縁のない人たち数人を相手に話しをした。その内容が活字になった。題名は、恩師50歳の時の著書『考古学入門』(1988、東京大学出版会)にちなんだ訳だが、内容・ボリューム共に遠く及ばないのは勿論のことである。ただ「考古学という学問の体系化を考える」という一点において、同じ志しを持つ者である。「第2」の「2」が、漢数字の「二」になってしまったが、まぁいいか。文末に記された筆者肩書は、「遺跡発掘研究者」である。確かに<遺跡>を発掘している研究者であることには間違いない。

話しの内容は、「3匹の子豚」という童話にもとづく世界のマクドナルド化から吸殻集中部、パストラミ・サンドイッチの半額シールにまで及ぶが、以下では小見出しと部分的な引用をもって簡単な紹介とする。

【考古学とは】
「考古学と聞いて、イメージすることは何でしょうか? スコップで古代の<遺跡>を発掘することでしょうか? 同じ古いものを掘り出すのでも、恐竜の骨を発掘するのを考古学とは言いません。なぜでしょうか?」(16.)

【<もの>と言葉】
「それは、<文字>による「歴史」とは違った<もの>からみた「歴史」を組み立てるためなのです。<文字>による「歴史」が見落としてきた事柄や人びとを、<もの>による「歴史」すなわち考古学が救い上げて新たな角度から新たな「歴史」を記すためなのです。」(16.)

【<もの>による歴史】
「単に、昔のことを復元する、歴史を組み立てる考古学とは別に、<もの>と<もの>との関係、私たちと<もの>たちとの関係を私たちはどのように考えているのか、私たちの考え方を考える考古学を「第2考古学」といいます。」(17.)

【様々な<もの>】
「<もの>にも人と同じように生まれてから死ぬまでの一生、「人生(じんせい)」ならぬ「物生(ぶつせい)」があります。」(17.)

【<もの>を通して知る時間】
「<もの>のかたちあるいは<もの>の<場>における在り方から、時間的秩序を明らかにすることが、考古学で最も重要な仕事となります。」(19.)

【<もの>と<場>】
「こうした<もの>の<場>における在り方から<もの>相互の時間的な前後関係を確かめます。」(20.)

【<もの‐場>による時間】
「はっきり言えるのは、包んだ時間は、包まれた<もの>が作られた後であるということ、包んだ<もの>も包んだ時間よりも以前に作られたということの二つだけです。」(20.)

【<場>における<もの>の在り方】
「考古学とはこうした考え方をして、いろいろな<もの>が作られた原因を考えていきます。」(21.)

【重複する痕跡】
「このように重なった痕跡を一つずつ明らかにすることによって、その<もの>がたどった経緯が明らかになります。」(21.)

【<場>のなかの<もの>の関係】
「考古学の主な作業は、<場>と<場>の関係、<もの>と<もの>の関係、<場>と<もの>の関係について考えることなのです。」(21.)

【考古学という考え方】
「ただ単に昔のこと(過去)だけを尋ね求めるのではなく、あるいは単に今のこと(現在)だけに関心を寄せるのでもなく、現在から見た過去、過去を通じて見た現在、過去と現在の相互の関わり方について考えましょう。」(21.)
「考古学という学問の名前には、「考える」という言葉が入っています。何を「考える」のでしょうか。そのことを考えなければなりません。」(22.)
「<もの>それ自体を追い求めるのではなく、<もの>と<もの>との関係から今の私たちの考え方、現在の社会の在り方を変革するような考え方を求めなければならないのです。考古学的な考え方は、私たちの<もの>の見方、世界の見方を広げて豊かにしてくれるのです。」(22.)

最後に編集者が引用された詩をここでも重引する。

「ものたちと」 まど・みちお

いつだってひとは ものたちといる
あたりまえのかおで
おなじあたりまえのかおで ものたちも
そうしているのだと しんじて
はだかでひとり ふろにいるときでさえ
タオル クシ カガミ セッケンといる
どころか そのふろばそのものが もので
そのふろばをもつ すまいもむろん もの
ものたちから みはなされることだけは
ありえないのだ このよでひとは
たとえすべてのひとから みはなされた
ひとがいても そのひとに
こころやさしい ぬのきれが一まい
よりそっていないとは しんじにくい


タグ:もの 研究
nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 3

八ケ岳

そういえば 文中のまどみちお氏の詩を読んで
同じまど氏の「ぼくがここに」の詩を思い出しました。

ぼくが ここに いるとき ほかの どんなものも
ぼくに かさなって ここに いることは できない
ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに まもられているのだ
どんなものが どんなところに いるときにも

しばらくご無沙汰していますが、長野は秋風
子供たちはこの19日から小学校に行っています。

by 八ケ岳 (2010-08-21 22:52) 

伊皿木蟻化(五十嵐彰)

最近思うことは、人の記す文章には、その人の生き方やこころといったものが現れているということです。
当たり前のことなのですが。
論文や著書といったかしこばったものはもとより、ちょっとした感想やコメントに至るまで、本人は意識していないだろうけど、そこにはやはりそのひとが今まで生きてきた過程や心の在り様というものが、好むと好まざるとにかかわらず如実に現れてしまうのではないでしょうか。
こころ豊かな、深みのある、柔らかな、しかし筋の通った文章を記したいものです。
by 伊皿木蟻化(五十嵐彰) (2010-08-22 07:40) 

佐久考古

ああ、確かにそうですね。
どんな短い言葉にも、自分が透けてみえるようで、唇がさむくなります。
八ケ岳
by 佐久考古 (2010-08-22 17:59) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0