SSブログ

三上1990「縄文石器における「完形品」の概念について」 [論文時評]

三上 徹也 1990 「縄文石器における「完形品」の概念について -石鏃を例とした考古学的史料批判の試論的実践-」『縄文時代』第1号:1-19.)

一読、大きな影響を受けた論稿である。20年弱の月日が経過した今になって読み返しても、新鮮である。石鏃の記載においては、提示された概念を自分なりにまとめ直し(1994a「石鏃」『田中下遺跡』)、石器型式と土器型式の違いについて考えた際にも改めて言及した(2002a「型式と層位の相克」『旧石器時代研究の新しい展開を目指して』)。

「考古学用語のなかでは、よく「完形品」という語が登場する。ごく一般的に使われており、難しい語ではないが、この語には意外な落とし穴があるように思う。これを文字通りに解釈すれば、こわれていなくて、丸ごと存在するということで、同時に、こわれていないから機能的にも充分に完全である、ということをも意味することになろう。考古史料の中でも、特に石器に対してはその双方の意味合いを暗黙のうちに認めて用いられているように思われる。しかし、果たして物の実際はその通りなのであろうか。その両者の混同が、私達を錯覚させている部分があるのではないだろうか。「形」の完全性と、「機能」の完全性が本当にイコールであるのか、またそれを確認した上で「完形品」と使っているかに疑念を抱く。」(105.)

論題には「縄文石器における」という限定詞が付されているが、これは決して縄文石器に限られる話しではない。<もの>の根幹に関わる議論であるはずである。しかしこうしたテーマで論稿が発表されたという話しは聞かない。
完全な形であることをもって、「使える」すなわち機能が充足されていると結び付けてしまう安易さに警鐘を鳴らしたわけで、このことが与える影響は少なからぬものがあると愚考するのだが。

「大きな石鏃は大型獣を、小さな石鏃は小型獣を対象とした狩猟具である。」
しかしこの場合の「小さい」とか「大きい」といった変数は、再生加工の頻度に応じて可変的であるとすれば、単純に「大きさ」を「機能」に結び付けて考えることはできない。

「完形の石鏃が落ちていた。狩猟に使い、回収されることなく、猟場に遺棄されたものだろう。」
完全な形がそのまま「使用」後や「使用」場所を意味するとは限らない。

「再生加工が特徴とされる管理的石器については、廃棄に至る機能上の許容限界が可変的であることが指摘されている(三上1990:註16参照)。すなわち縮小のベクトルに応じて許容限界に近付いた完形の石器(exhausted tools)については、使用が断念されて廃棄されるかあるいは使用が継続されるかという意志決定が縮小した石器の物理的大きさや重さだけでなされるのではなく、代替としての新たな石器がどの時点で補充されるかという状況的な補給構造が作用しているのである。」(五十嵐2002a、註1:22.)
「許容範囲が必ずしも最高ないし100%であるとは限らない、という認識が「捨てる」という意味を考える上で重要ではないかと考える。」(三上1990、註16:131.)

過去(当時)に使われていたもの(機能中)が、現在(今)出土する(機能喪失)ということの意味。
壊れている(破損)と壊れていない(完形)ということの意味。

石鏃だけではなく、他の石器器種、例えば石匙やナイフ形石器ではどうだろうか?
石器だけではなく、他の素材、例えば土器や木製品、金属製品ではどうだろうか?
遺物だけではなく、他の考古資料、例えば住居跡や炉ではどうだろうか?
こうした検討作業から、考古資料というものの特質が浮かび上がってくるだろう。

まだまだ汲み取るべき「種」が、幾つも胚胎していることが予感される。


タグ:考古資料論
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0