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近藤2008『考古学通論』 [全方位書評]

近藤義郎 2008 『近藤義郎と学ぶ 考古学通論』 青木書店.

「「原始史料論」(近藤1976)と題された論稿は、その後、内容を修正することなく「考古資料論」(近藤1985)と改題された。(中略) 私たちは、「原始」や「古代」あるいは「先史」に限定されないあらゆる時代を対象とするという意味での新たな考古資料論を構築していかなければならない。」(五十嵐2007「<遺跡>問題」:255.)

ようやくというか、待ちに待ったというか、近藤1976以来の「新たな考古資料論」が公刊された。1996年に岡山で行なわれた市民講座の内容を纏めたものということである。
さて「原始史料論」以来20年間の時を経てなされた講演、その後さらに10年以上の時間をかけて纏められた本書の内容や如何。

「物や跡(道具…物・遺物、痕跡…跡・遺跡)
 これが考古学の材料です。主に道具に分類できるものと、痕跡に分類できるものに分かれます。」(9.)

お、考古学の材料は、「物と跡」すなわち「遺物と遺跡」という二分論への後退か?と思わせる記述である。
不安になりつつ百数十頁を読み進んだ挙句、ようやく以下の文章に行き当たる。
「「もの」(遺物)と構造物(遺構)の関係、土器と住居址との関係
 次は「もの」と構造物との関係です。この構造物というのは、墓であり、住居であり、落とし穴であり、貯蔵の穴などであります。寺の金堂の跡、前方後円墳の竪穴式石槨、こうもり塚の横穴式石室もそうです。これを考古学では「遺構」と呼んでおります。」(171.)

よかった。「遺構」概念は維持されていた。
それでは、「瓦は遺構なのか、それとも遺物なのか」(五十嵐2004「痕跡連鎖構造」:281.)という論題については、どうだろうか?

「もっとも、どれが遺構でどれが遺構じゃないかということを突き詰めて考えると、僕らでも判らなくなることがあるんです。一個の甕形土器が完形で埋まっているとします。それは遺物ですが、遺構でもあるんです。両方の要素をもっているんですね。つまり、土器は遺物ですが、土地との関係においては遺構の一部分でもあるわけです。」(172.)

うーん、これでは、近藤1976:19-20.における記述と何ら違いがない。
「地面を掘り込んだ痕跡(遺構)でもなく、動かしても機能が損なわれることのない道具(遺物)でもない品々。ある状況で見いだされれば「遺物」として扱われるが、全く同じものが異なる特定の状況、構造物の一部として見いだされれば「遺構」として扱われる品々。これらを「部材」と仮称する。」(五十嵐2004:282.)

何故なのだろうか? それは、やはり筆者の中にある「考古学」が圧倒的に「先史・原史」に偏っているからではないだろうか。そして今回の「考古学通論」も実は「(先史・原史)考古学通論」であることに起因するのではないだろうか。

「歴史考古学は、一方において文献資料がありますから、文献に頼ってしまうんですね。つまり考古学の自立性が、必ずしも大事にされない。だから、考古学そのものとしては、あまり重要性がない、つい僕はそういう失言をしてしまいます。そうすると、若い連中に袋叩きにあうんですが、「ではお前らは文献にまったく頼らないで、鎌倉幕府の成立を描き出せるか」と問い返すと、誰もできないんですよ。(中略)
ですから歴史考古学は、文献に頼る考古学という意味では、考古学の初歩、基本を勉強するにはちょっとふさわしくない。考古学のベテランがやる学問だと考えています。僕自身は先史・原史考古学の用語はあまり使わないのですが、実際には先史・原史考古学に終始するわけです。」(21-22.)

筆者が「考古学のベテラン」でなくて、誰が「ベテラン」になることができよう。誰もが認める「ベテラン」の筆者だからこそ期待しているのだが。これでは、過度の自己謙遜ないしは「若い連中」に対する牽制球にしかならないのではないか。「失言」あるいは「袋叩き」という用語にも、筆者のある見方が表出しているようである。「鎌倉幕府の成立」に至っては絶句。本気で「鎌倉幕府の成立」を反論の根拠にしているとは思いたくないのだが。

「それじゃ、我々が遺跡といっているものは何か。ある土地に含まれている、すべての遺物とすべての遺構の相互関係、これが遺跡です。「一定の広がりのなかで、認識ないし推定できる、推定が可能なかぎりの遺物相互、遺構相互、遺物と遺構相互の全体的関係を遺跡」と定義したらどうでしょうか。」(174.)

これまた近藤1976における遺跡定義との差異を見出し難い。
さて「岡山遺跡」の「一定の広がり」、「全体的関係」とはどのようなものなのだろうか?

最後にもう一つ気になることを。
「衝突といっても、同じ力をもっていたらいいですが、片方は国家権力そのものですから、一介の考古学者など踏み潰されるのは当たり前ですね。そういうなかで日本考古学は痛めつけられながら、少しずつ進んできたわけです、明治も、大正も、昭和も、涙ぐましい努力を重ねてきたわけです。大正から昭和前期の考古学の進歩という、ここに挙げた人たちは、過酷な環境のなかで天才的な能力と努力を発揮した方々であります。」(63.)

橋頭堡、近藤義郎1964「戦後日本考古学の反省と課題」においては、一語たりとも元号は使用されていなかったはずなのだが。

こうして通読してきて、大変不安になってきた。
「現在、筆者の健康状態が芳しくない」(244.)ようなので、殊更。


タグ:考古資料論
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コメント 2

sakamo

「明治も、大正も、昭和も、涙ぐましい努力を重ねてきたわけです。大正から昭和前期の考古学の進歩」…こんなことを近藤義郎が口にするとは。
「耄碌」とはそんなものかもしれないですね。
1964年には考えられない言説でしょう。66年には十年越しの運動によって、「紀元節」が復活、ついで「靖国」国営化や「元号」法制化が続々政治日程にあがってくるわけですから。
あのときは、そういう「時流」だったから的な見方はしたくないけど、これじゃあ見ざる得ない。
歴史家の「元号」への対し方って、そういうものではないだろうに、これじゃあ戦後一貫して「元号」を支持・使用している方々のほうが、スジ通していることになる。
最近、日本史に関する書籍などを読んでいると、歴史家の「元号」への距離・留保は、もうほとんど感じられないですのも事実ですが。
だいたい、日本考古学って、いつ「痛めつけられ」たの?
国策と伴走してきた事実が、90年代、それなりに明らかにされてきたような気がしていましたが、一部戦後「進歩」派の、「時代遅れ」の「被害者」意識の亡霊を見るようで、悲しいです。
歴史考古学認識も酷すぎる。こんなこと、「市民」向けに語ってるとは。近藤氏は退化してますね。鎌倉時代の研究を、「幕府の成立」的テーマで象徴させるかな、いまどき?
まあ、たしかに何をもって成立の画期とみなすかは、近年もなお「熱い」重要テーマではあるけど…。
by sakamo (2008-08-24 18:59) 

五十嵐彰(伊皿木蟻化)

「1950年岡山大学に助手の職を得、講義と発掘三昧の後、1990年岡山大学退職。」 
勿論、私と近藤氏とでは、社会的なポジションが大きく異なり、一概には言えないでしょうが、私は「発掘三昧」との表現を目にして、彼我の間に大きな隔たりを感じざるを得ませんでした。もしかして、こうした文章も、「「はしがき」に挙げた数名が一定の調整を施し」(244.)た結果なのでしょうか?
自らの著作に自らの名前を付して「○○と学ぶ」といった書名を選択された時点で、一抹の不安を抱いていたのですが・・・
by 五十嵐彰(伊皿木蟻化) (2008-08-25 19:15) 

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