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#18:20080213 [セミナー]

考古学における認識について論じ合った。
関連して言葉の使い方あるいは読み取り方についても。
例えば、ある文章において「客観的」という言葉が使われていたとしても、どのような意味での「客観的」であるのかを文脈に応じて的確に読み取り、また的確に使わなければならないということである。なぜなら、「存在論的には主観的だが、認識論的には客観的である」などということがありうるからである。

「例えば、あなたが支払わねばならない家賃は、いやになるほど客観的であろう(これを私なりに言えば「世界の中に存在する」となる)。しかし、それが存在するためには、人間の慣習を必要とする。人間と人間が作った制度なしには、家賃などという対象は存在しないという意味で、家賃は存在論的には主観的であるとも言えるのである。他方、家賃は認識論的にはあくまで客観的である。例えば、あなたが家を借りているとしよう。その場合、あなたは、毎月初めに(例えば)十万円を「家賃」として払わねばならないことをよくご存知のはずである(このことに関しては、残念ながら主観的な点はいささかもない)。」
(イアン・ハッキング2006『何が社会的に構成されるのか』:50.)

考古学という学問にもいろいろなレベルで「対象」と目されるものがある。そしてそれに応じて様々な「観念」あるいは「カテゴリー」が考案され、運用されている。
最も基底的には、それこそ「一片の土器片」あるいは「一個の穴ぼこ」といったレベルから、「日本民族」や「オリエンタリズム」といったレベルに至るまで。
誰もが納得できて「ここから出発すべき」といったレベルから、十人十色まるで「雲を掴むような」といったレベルに至るまで。
こうした両極端の間に、私たちが議論すべき多くの事柄があるような気がする。

第一に、複数の考古資料がそれ自身のもつ属性に基づいて区分される場合(いわゆる「内包的」な属性)、すなわち「型式」とか「種類」というカテゴリーについて。
第二に、複数の考古資料が空間的な位置に基づいて区分される場合(いわゆる「状況的」な属性)、すなわち「集落」あるいは<遺跡>というカテゴリーについて。

こうした私たちが当たり前と考えている「区分の仕方」「分類方法」そのものについて、「ホントウに今あるような形で区分すべき根拠あるいは本質といわれるようなものがあるのか?」あるいは「今ある枠組みとは別の何かを構想することは、ホントウに出来ないのか?」と問い直すことが求められている。

この世に確固とした固定的で自明な「型式」とか<遺跡>などというものは、存在しない。
全てのカテゴリーは、可変的で流動的なものである。言説実践の過程こそが問われなければならない。
こうした考え方に対して、ある哲学者は別の側面から「考古学的構想力」なる名前を与えて新たなアプローチを試みている。

飛躍するようだが、最終的には私たちが「正義」ということをどのように考えるのかということに行き着くように思われる。

「正義について話したいのですが、まず私の教室で起きたことをご紹介します。なかなか学生諸君が手を挙げて意見を言ってくれなくていつも非常に困るのですが、法政大学での授業のときに、はい、と手を挙げた人がいた。しかし、彼は、「日清・日露戦争は侵略戦争だったという日本人がいるけれども、そうではない。それはそのときの日本にとって必要だったし、正しかった」と言ったのです。それが君の意見ですかと問うと、そうだという。そこで、当時の多くの日本人はそれを正しいと信じていたかもしれない、だが、いま君はそれをどう思うのかと尋ねたら、答えられなくなった。では、たとえば二百年前までは奴隷制はあたりまえだった、君はいまそれをどう思うか。1945年以前の日本では、多くの人が女性に参政権のないのはあたりまえだと思っていた、いま君はどう思うのか。すると彼は、意外なことを問われたという顔で黙ってしまいました。
彼が「自分の意見」を述べたのは、他の大部分の学生たちの判断停止状態、無意見状態に苛立ってのことだというのは私にも理解できるのです。しかし、彼は、現在の日本の「繁栄」は「いい」という前提を疑うことなく、そこから過去を正当化する。彼という存在にとって、「いま」がほんとうに「いい」のか。また、その「繁栄」が他者の犠牲の上にあるとしたら、それでも「いい」と言い続けることができるのか。こうした内省的な自問の形跡はありません。
これは、学生に固有の現象ではなく、現在の日本社会全般を覆う現象の一部だと思います。日清・日露戦争に限らず、戦争というものの善悪を判断する基準が、それが自国の経済的繁栄につながったかどうかしかないとすれば、恐ろしいことです。端的にいうとそれは、金儲けのための殺人を肯定する思想だからです。戦争のような行為を私たちが判断する基準は、それとは別に厳然とあるはずだと私は思っています。問題は、こうした「正義の感覚」の衰弱だと思います。」
徐 京植2000『断絶の世紀 証言の時代 -戦争の記憶をめぐる対話-』徐 京植・高橋 哲哉、岩波書店:166-167.)


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