母岩識別批判(5) [石器研究]
当初「個体別資料分析」と呼ばれていた母岩識別研究について、その日本的独自性を述べるにあたって、「その方法論は、日本の霊長類学が用いてきた「サルの個体識別」と同様のものである」(五十嵐1992「関東地方における石器文化の変遷に対する感想」『石器文化研究』第4号:p.17)と述べたが、今や全くの誤り、見当違いであることが明らかになった。
サルの個体識別とは、サルという一個体の生物を単位として、それぞれのサルを識別すること、あのサルとこのサルをサルという生物全体を観察することで識別していく方法論である。
それに対して、石器の「個体識別」すなわち「母岩識別」とは、母岩という一つの個体を単位として、相互の母岩全体を観察して識別していくのではない。「母岩識別」という方法は、一つの母岩から打ち割られた様々な破片、すなわち剥片・石核・砕片・加工石器など一つの母岩から打ち割られたカケラたちを観察して、それらのカケラが由来する「もとの母岩」を想定・分類する作業なのである。
サルに擬えて言えば、あたかも地面に落ちているサルの毛や爪といったカケラから、落とし主のサルを同定するような営みとでも言えようか。
あるいは、地面に落ちている桜の枝や花びらやさくらんぼを観察して、桜並木のどの木から落ちたのかを決定する営みとでも言えようか。
もちろん、小枝を観察するだけでも、この枝は、樫や栗ではなく桜である、ということは言えるだろう。それは、あたかもこの石は、安山岩や頁岩ではなく凝灰岩である、というのと同じである。
あるいは、桜に詳しい人なら、この枝は、ソメイヨシノである、とかヒガンザクラであるとかまでを言い当てることも可能かも知れない。それは、あたかもこの剥片は中生代の珪質頁岩製である、というのと同じである。
しかし、この枝は、この桜並木の東から4番目のこの木から落ちた枝である、などというのは、どう考えても行き過ぎである。桜の木にDNAに相当する識別遺伝子があるのかどうだか詳しくは判らないが、そのようなものがもし抽出されればそうしたことが可能なのかも知れない。しかし、肉眼で、あるいは顕微鏡を使ったとしても表面の観察だけで、そのような判定を行なうとしたら、それは科学的な行為を逸脱したもの、オカルト的行為と言われても仕方がないだろう。
「母岩識別」と称して、接合しない石器資料を「見た目」で「同一」と判断し、さらにそれらが分布する空間相互の関係にまで言及する人びとは、本当にこれが同じ母岩に由来するということを、どのように証明していくのか?
誰が行なっても同じ結果が得られる、というのが科学としての最低の要件である(データの再現性が保証されている)。
そうでなければ、少なくとも、ブラインド・テストを行なって、対象とする資料の統計的な信頼度を提示することぐらいはなされなければならない最低の務めなのではないか。
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